ほんとは、疲れきっている妻のところに早く帰りたいんだけどね。まぁ、本当にめったにないことなので、申し訳ないけど、勘弁してください。
夜桜が見たい、と彼女が言い出したのは、彼女の始業式の前日だった。僕の学校の始業式はもう数日後だった。悪くないね、ということで、翌日、陸上競技場のゲートで待ち合わせをして、川沿いの歩道を並んで歩いた。いささか品のないぼんぼりの淡い照明で照らされた夜桜が、川面に覆い被さるように枝を伸ばしていた。桜はもう数夜で満開というところで、ときおり少し強めの風が吹くたびに数枚の花びらが耐えかねたように枝から舞い落ちていた。
制服のジャンパースカートにボレロという服装では、少し風が冷たかったようだ。「コート、着てくれば良かった」と彼女は言った。
「そうなんだよね」と僕は見当違いな返事をした。「桜の頃って、ものすごく暖かくなってるようなイメージがあるけど、夜は冷えるよね。今日は10月下旬ぐらいの陽気なんだって。FENでそう言ってた」
「そういうことじゃないんだけど」と彼女は笑った。それでようやく僕も気が付いて、自分が着ていたワインレッドとベージュのスタジアムジャンパーを脱いで、彼女の肩に掛けた。僕はデニムのボタンダウンのシャツ(自分で漂白した。そのころ、流行っていた)だけになってしまったけれど、彼女が僕の腕にしがみつくようにしていたので、寒くはなかった。
ありがとう、暖かい、あなたは大丈夫?タバコは自分で持っていて。それにしても、と彼女は言った。「このジャケット、お気に入りなのね。いつも着てる」
「他に持ってないんだ」と僕は笑った。「でも、気に入ってるのは確かだよ。君は知らないと思うけど、フォーティーナイナーズのチームカラーなんだ。背中の16は、モンタナの背番号」
もちろん彼女はジョー・モンタナを知らなかったし、アメリカンフットボールも全く理解していなかった。「テレビで見たことあるけど」と彼女は挑発するように言った。「あんなに重装備して、ボールを追いかけてぶつかり合うことの面白さが分からない。まともな大人のすることかしら」
僕はいつものように少しむきになってアメフトの魅力をまくしたてた。彼女もいつものように、とても上手に聞いてくれた。ライトアップされた川沿いの道を往復して陸上競技場に戻り、ゲート脇のベンチに並んで腰をおろすまでの間に、僕はいわゆるモンタナ・マジックについて一通り説明し終わった。すると、彼女が突然、思いもかけないことを言った。
「じゃあ、連れて行ってくれる?」
えええ?と僕は間の抜けた声を出した。「アメフトの試合を観に行きたいの?」
「アメフトの試合じゃなくて、フォーティーナイナーズの試合。モンタナの試合。キャンドルパークスタジアムに、私を連れて行ってくれる?」
「でも、サンフランシスコだよ。アメリカだよ」
「うん」と彼女は僕の顔を下から覗き込んだ。
とっさに返事が思い浮かばず、僕は無言でただ彼女の視線を受け止めていた。
「・・・・・・冗談」と彼女は簡潔に言った。まだ面食らっている僕を尻目に、彼女はさっさと立ち上がって僕の正面にまっすぐに立った。
「いつもそう。あなたの好きなもの、私も好きになりたいよ。でも、ほんとにそれで良いの?」
僕は答えられなかった。彼女に自分の好みを押し付けてよいのかどうか、分からなかったのだ。何しろ僕は、彼女を西海岸に連れて行くことさえできないのだから。たったそれだけのことにさえ、責任をもてないのだから。
「さて」と彼女は言った。「このジャケットはこちらで預かった。返して欲しかったら、来年また私と夜桜を見ること。分かったか?」
「分かった。ごめん、話に夢中で、桜なんてほとんど見てないものね」と僕は答えながら、なんとなく宙ぶらりんな気持ちだった。そわそわとして落ち着かなかった。自分がとんでもない大きな間違いを、そのままにしてしまっているような気がした。
彼女とは地下鉄の駅で別れた。家に帰ると、少し熱っぽいようだった。風邪を引いたのだ。
・・・・結局、その赤いスタジャンは僕の手元には戻らなかった。僕は翌年の桜を別の女の子と見たからだ。彼女が僕のスタジャンをどうしたのかは分からない。たぶん、何かのついでに捨ててしまっただろう。
いま、僕は当時のちょうど2倍の年齢になった。いまだに、桜の季節にはそわそわと落ち着かない。
新生児のいる家ではあたりまえのことなのですが、睡眠が細切れになってしまいます。僕もきついですが、妻への負担は比較にならないぐらいすごいですからね。
僕も、生意気に発熱なんかしちゃったりしましたが、一晩熟睡させてもらったら直りました。明日はお休みだから、今日は夜の授乳を僕が引き受けて、妻には久々に8時間ぐらい寝てもらえるように段取りしてみようと思っています。
で、その「後追い読書」(<笑)ですが、最近では「六番目の小夜子」と「催眠」を読みました。「六番目の小夜子」は良かったです。たとえば僕は1980年代半ばに愛知県で高校三年生だったのですが、まさにこの小説に描かれているような牧歌的な男女交際には、単なるノスタルジーを超えた眩暈のようなものさえ感じます。ついこのあいだ、首都圏で高校三年生だったそらまめさんが感じた違和感というのは、やはり年代的・地域的なものがあるのかも知れませんね。
作品自体はミステリー・ホラーの類だと思うのですが、青春群像としてもちょっと浸れます。ご興味を持たれた方は是非どうぞ(^^):恩田 陸:新潮文庫
さて、次に「催眠」ですね。作者の松岡圭介氏のプロフィールを見ると、1968年愛知県生まれ、とのこと。おお。偶然ですが、ねじまきと同じですね。俄然、親近感が沸きます。
作品自体は、催眠療法や臨床心理学に関するリアルな情報を縦横無尽に駆使したミステリーで、カウンセリングという療法や技術を真正面から大まじめに取り上げた、ものすごく読み応えのある小説だと思います。読後感も、ものすごく爽やかでした。
で、その小説:催眠が面白かったので、続編の「千里眼」も買ってみたのですが、これはどうも、映画:催眠の続編ということのようですね。小説:催眠とは趣ががらっと異なっていて、なんというか、ハリウッド映画みたいな感じでした。うーむ、面白いんですけどね。
現在、さらにその続編の「千里眼/ミドリの猿」を読んでいるところです。そらまめさん、未読でしたらお貸ししますよ?
で、ちょっと驚いたのが、医者の数。形成外科の先生に、丁寧に唇を作ってもらえばそれでおしまい、ぐらいに考えていたのですが、いやいやいや、とんでもなかったようです。
本来、親である我々がケアすべき、と考えていたさまざまな事項まで、しっかりとサポートしてくれる体制が整っているのですね。
たとえば、「歯茎の中の骨が一部足りないので、歯並びは不利だなー。大人の歯が一通り出てきたら、生活に不自由ないようにイーカンジで作ってやらなきゃなー」と思っていたのですが、なんとなんと、その歯茎の中の足りない骨は、腰骨の中身を移植して足してしまうんだそうです。そのための形成外科や、専門の矯正歯科の先生もいました。
それと、「唇がうまく馴染まなかったら、言語(発音)の発達も、不利かもなー」と思って、ちょっとだけ心配していたのですが、ちゃんと「言語ナントカ」の先生もいました。
それに、将来、能亜くん本人もさることながら、紗良ちゃんや妻が、(主に疲労から)ココロやカラダのバランスを崩さないように、オレサマはしっかりせねば、と思っていたのですが、なんとなんと、医療チームのなかには、ちゃんと臨床心理士(でしたっけ?ようするに、資格のあるカウンセラーの先生)もいました。
ちょっと大げさじゃないかなー、とも思うのですが、まあ、心強いのは確かです。
・・・・能亜が生まれてからというもの、純粋にデリケートな新生児を預かる苦労やプレッシャーで疲れてはいるのですが、特に紗良の時と変わりはないですね。紗良のときと同様、彼の将来が楽しみで楽しみで、毎日が浮かれ調子でロケンロールなわけです。
ところが、今回の講習会で同じ状況の赤ちゃんの親御さんと車座になって自己紹介をしたときに、何人ものお母さんが泣き出してしまいまして、それを見て、我々二人とも、思わずもらい泣きしそうになってしまいました。・・・・が、よく考えたら置かれている状況は我々も同じなわけで、自分の子供のためにじゃなくて、他の子供のお母さんに同情してもらい泣き、というのは、ちょっと根本的に間違っているのかもしれません。
・・・が、ぶっちゃけた話、能亜くんの現状や将来について、どうしても悲観的な気分になれないのです。さすがに今回、少し考えが甘かったかな、と反省はしたのですが、それでも、この障碍自体は、彼の人生の中においては、まず間違いなく、もっとも小さいトラブルの一つに過ぎないはずです。もっとも与しやすい問題の一つのはずです。
唇や歯茎を作ってあげなくてはならない、それだけのことじゃないか。彼が彼自身の人生を切り拓く上で取り組まなきゃならないであろうさまざまなトライアルの中で、これほどイージーでシンプルなものは、むしろ少ないと思うぞ。もっとずっと繊細でタフで不愉快な問題が、いくらでも沸いてくるんだぜ、この人生ってやつは。まあ、がんばれよ。
というわけで、能亜くんには悪いとは思うんだけど、もうひとつ同情心が沸かない父なのでした。・・・・やっぱり問題かなぁ。